琉球沖縄の時代と世代をつなぐワンテーマ・マガジン『momoto(モモト) 』副編集長でフリーライターのいのうえちずが、モモトの裏話を時に腹黒く綴ります。
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2011年05月11日

どうする、西塘

本日、次号momotoの取材をしてきました。
リサーチはちょっと前から始めているんですがね。。。

次号では、変態天才フォトグラファーchoji兄さんと、私とで、
西塘の足跡を訪ねて八重山を旅する紀行文を掲載します。
今日は、その取材第一弾だったわけです。

西塘、そりはミステリアスな男。
オヤケアカハチvs首里連合軍の戦いの時、
非凡な才能を認められて竹富島から首里へ連れて行かれたという人物で、
後に、首里王府に仕え、園比屋武御嶽石門や弁ケ嶽の石門などを築いた石大工です。
その実績が認められ、八重山初の頭職として竹富島へ戻り、
当時の納税&行政センターである「蔵元」を作って、
八重山全体の行政を司ったそうな。

首里王府が琉球全体を統一していく過程で、
宮古や八重山を併合していくわけですね。
それに対し、各島ではもちろん抵抗をする。
オヤケアカハチなどは、レジスタンスのヒーローと見ることもできます。
ただ、首里中心の史観で見ると、オヤケアカハチは王府に抵抗する悪いヤツということになる。

今日、お話を聞いてきたのは、某大学の元教授ですが。。。。




ち「先生、グスク復元で石を積んでいる知人に言わせると、
  現代の石工たちがコンピュータを使って構造計算を丹念にしても、
  何かあったら、積んだ石は崩れる、と。ところが、昔人の積んだ石は崩れない、と。
  西塘の時代の技術と、現在の技術では、何か断絶のようなものがあって、
  当時の技術にはかなわないというんですね。
  私の中では、西塘は『球陽』に忽然と現れた印象なんですが、
  首里に連れて来られた時点で、すでに石工としての技術を持った人材だった、
  つまり渡来人だったとは考えられませんかねぇ?」

先生はニヤリと笑った。

「そういうことを言う人は多いんですよ。
歴史物語というのはね、伝承の部分と、史実の部分がある。
そのバランスが重要なんです。
史実の積み重ねだけでは、つまらないでしょう?
かといって、伝承、言い伝えのようなものだけでは、事実とかけ離れてしまう。
私の考えでは…(ここからは次号momotoでのお楽しみ♪)」


いやー、一人の人物の足跡を追いかけるという試みですが、
これ、琉球史、アジア史、と、視野を広げていくと、実に面白い。
そして、いわゆる「正史」が形成されていく過程という視点も欠かせません。

島は、海に隔てられているのではないな。
南洋で、沖縄で、それをいつも思う。
すべての島は、海でつながっている。

何度も言ってることだけど、そんな単純なことに、なんともいえないロマンを感じるのでした。
世の琉球史好きのオヤジたちは、多分みんなそうだと思うわ。
大航海時代とか、好きな人多いよね。わしもそうです。血中オヤジ濃度が高いので。
(娘はわしを「ママって、小さいおっさんだよね」と言う)


というわけで、西塘を追いかけるタイムスリップは、まだまだ続くのでした。
次の取材は、なんとわしと同窓のあの先生に決まりだ!専門家の話って面白いんだなぁ。ぶひひひ


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Posted by いのうえちず。 at 23:00│Comments(5)momotoウラ話
この記事へのコメント
ヤマトの城壁でも・・・
同じですね。

現在の技術で・・・
昔の急勾配の石垣に復元しよとしても
チョイト大雨が降ると崩れてしまう。

それを何度か繰り返すのだが同じ結果。
仕方なく傾斜を緩くせざるを得なかった。

しかし、戦国期、近世でも結構崩れたみたい。
頻繁に修理するのが
城の石垣の宿命だったみたい。

いくら天下無敵の城だって
石垣の勾配は程々にってことだが
実戦用になると、そうもいかなかったのかな?


そう、軍備は何時の時代も
金食い虫だったんですね。
やれ、やれ・・・。

            (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2011年05月12日 06:47
まあ、そういうことですねー。
とかく戦争の準備は、防衛も含めてカネがかかる。

それと、石積みに限らず、
技術の継承には、ある程度の維持費がかかるっちゅうことですな。
Posted by ちず at 2011年05月14日 11:35
それから・・・
石と言えば沖縄もアーチ状の石橋が多かったみたい。
これって薩摩の影響?
長崎や鹿児島に多いし有名だよね。

確か長崎へ行った時「石橋物語」てな本を買ったような。
郷土の石橋研究家の著書だったと思います。
九州中の石橋を調査しかとか云々。

20日の「那覇まちま~い」・・・
「久茂地逍遥~12の橋めぐり」に
参加します。

「トロイメライ」を読んでから
矢鱈と「長虹堤跡」が気になってならない。
20日には、ここも歩けそう。

            (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2011年05月15日 14:26
琉球の石積みは、日本とは技術的な系統が違うような話を聞いたことがあります。
薩摩の影響より、まずは中国の影響を考えたほうがいいのではと思います。
最初に土木工事を伴って整備された国立公園的なものは、
モロ中国人によって作られた龍潭ですからね~。
寒川樋川→円鑑池→龍潭という流れもだけど、
中で水がうまく対流する絶妙な深さに設計されてたらしいですよ。
当時から、中国の技術がベースにあった上での石積みだから。
Posted by ちず at 2011年05月21日 23:48
「石橋物語」の著者は
九州の石橋の技術は中国と云うよりは
西洋のものに近いのではと
仮説を立てているのが面白いですが
在野の方ですので断定はしてませんが・・・

          (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2011年05月23日 08:50
 
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